瓶水を浄水器で移すがごとく
自分語りブログをはじめて、しばらく経ちました。相変わらず、自分の思ったことを変に形にせずに、書き直さずにそのまま書く練習として書いています。
読んでいただいている方は、ありがたいと思います。
今回は、やっと諦めというか、なんとなくの自分の方向性が垣間見えた、という話です。
前回の記事でおそらくADHDであるんだろうなぁ、と気づいてから10年近く立つわけですが、人の話をその場でほとんど理解できていないんだと思っています。大体、極力頭のなかで噛み砕こうとしているのですが、ずれていることが多いです。これはADHDのせいなのか、ADHDだからと思っているからなのか、はわかりません。なので、人によっては私との会話で苛立ってしまう人もいるとは気づいています。ですが、どうしようもないわけです。頑張っています。
で、今回のタイトルの「瓶水を浄水器で移すがごとく」というテーマですが、「瓶水(びょうすい)を移す」とは御存知の通り、師匠的な人が自分の知識を弟子にそのまま伝えることを意味します。で、これに「浄水器で」がついているわけですが、結論から言うと、「浄水器」というのは主に「ブログ」のことを指しています。
どういうことかというと、私自身は勉強することが好きな方なのだと思います。常に勉強していたいと思います。ですが、それがなぜかというと、勉強しても勉強しても満たされることのない感じがするのです。ちょうど、「瓶に穴が空いている状態で水を入れている」感じです。入れても入れても出て行くんです。ただただ、流れていきます。
これまでは、どうにかして「瓶の穴」を埋めようと色々試行錯誤してきました。勉強方法を変えてみたり、筆記用具を変えてみたり、LinuxのOSを変えてみたり。いろいろしてみたわけです。ですが、結局のところ穴を塞ぐことはできませんでした。
ですが、最近技術ブログを書くようになってから、なんとなく「良い感じがするな」と思えてきました。何かが満たされているような感じがするのです。見られているからといったこともあるかもしれません。でも、どちらかというと「知識を噛み砕いて伝える」のに興味が湧くようになりました。でも、講義のようにその場でやるのには、ストレスが大きすぎます。おそらく、ブログなどに執筆がちょうどいいのかもしれません。
そこで、穴が空いているなら空けたままで、他の瓶に入れてしまえばいいじゃないか、と思ったわけです。自分と同じ知識なんて誰かしら持っているわけだから、自分なりに噛み砕いた知識を、誰かに伝えることが自分の健康状態にいいんじゃないかなと。浄水器にへばりついた「カルキ」のようなものが「自分に残った知識」なのかもしれません。きっと。
私は、確実に頭はよくありません。噛み砕くのにも相当な時間をかけてきました。そのため、ここに行き着くまでに時間がかかりました。でも、噛み砕くのにもそれなりにテクニックがあるはずで、そこのノウハウは年の功というか、なんというかで身についている部分はあるはずです。きっと。それがうまく働けばなと、思ったところでした。