できる自信とできない根拠
最近、いろいろな仕事をやらせてもらっています。
基本的に安請け合いしてしまう方なため、後になって辛く響くことが多いです。それでも前よりは、かなりわがままにさせてはもらっています。
なぜ安請け合いしてしまうのか、ということを最近になって考えてみました。
基本的には自信がありません。
あるように見られても、ありません。
そして、なぜあるようにみられるか、ということも今回考えたことで、わかったような気がします。
(自身がないので、気がしたという表現が適しています。)
まず、あることを相談されます。
自信(実力)のある人であれば、アプローチを考えてその場で「できる」と答えるでしょう。
自信(実力)のない人であれば、できない理由を探して「できない」と言うかできない理由を列挙するでしょう。
私の場合は、頭の中では「自信のない人」ですが、口は「自信のある人」のように行動していることが多いようです。(これが自信のある人、とみられる原因のようです。)端的に言えば「いい格好しい」ということなのでしょう。きっと。
ただ、「いい格好しい」という結論で終わりたくない、という一心から、こじつけてそうではない根拠を並べてみました。
さきほども言ったとおり、自信はありません。自信があるくらいなら、こんなことを文章にしません。ないからない根拠を並べるために書いているのです。
ですが、今回考えて気づいたことは「できる自信」よりも「できない根拠」の方がないことが多いのです。ネガティブの極地なのでしょうか。もしくは「人の考えること」と高を括っているのでしょうか。(最近は後者のきらいがあります。)
と突然結論づけたところで、電車を降りました。