デザイナー」や「エンジニア」の境界線、というのは能力の話だけというわけではない
沖縄に来ています。もう数時間で東京に帰ります。
このようなブログを目にしました。
この意見には賛成ですし、もう少し言えば最近言われた話ではなく、もう何年も前から言われていることです。あえて悪いところをあげるとすれば、海外の会社の例を引き合いに出しているのはあまりよくないと思います。一部を観て推測するのならともかく、何かしらの伝えたい事がある上で「一部を見て全てを語る」ような文章は、あまりいいとは思えません。そして、そのような文章は、私自身が書く場合もあります。
別に今回はこのブログの批評をしたいということではなく、単に奥さんが友達へのプレゼントを決めきれずにあちこちの店舗を探しまわっているため、海ちゅららのカフェに入ってfacebookをみていたらたまたま上の記事が流れてきたので、思ったことを書いてみた次第です。
本題に移ります。
2013年末に亡くなった大滝詠一氏が、ジャンルというものについて1990年ごろのラジオで次のようなことを語っていました。
音楽のジャンルというのは、後の人がわかりやすいようにつけたものにすぎない
曲を作った本人が「この曲は◯◯のジャンルだ」といわなくても曲はなんらかのジャンルに振り分けられますし、「この曲は◯◯のジャンルだ」といったとしても、後の人がそのジャンルに振り分けるとは限りません。
ジャンルというのは、単純にわかりやすくするものなのです。ジャンルが振り分けられる対象の価値を高めたり低めたりする効力はありません。
職業も同じなんだと思います。
班長のようなグループ内、もしくは会社、もっと大きく言えば国、さらに広げれば人間全体で「この人がこのような仕事をしている」というのをわかりやすくするための呼称が「職業」なんだと思います。
が、おそらくそれがどこかで逆転してしまったのだと思います。
「この人は、◯◯ができるから△△の職業」
から
「この人は、△△の職業だから◯◯ができる」
もしくは、もう少し悪い方向に進んで
「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」
という風に。
つまり、職業ありきで何ができるかを決定するようになってしまったように思えるのです。時には「この人は△△の職業だから、◯◯以外はできなくてもいい」と捉えられてしまう場合もあるかもしれません。見方を変えると「何ができるか」という部分が重要でなくなったようにも思えます。
少し言葉を悪くすると「公務員的」な考え方です。
「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」
「この人は△△の職業だから、◯◯以外はできなくてもいい」「
という発想は、「自分の仕事はここまで」と割り切りやすいのです。少なくとも、私はそう思います。
「デザイナー」や「エンジニア」が必要ない、というのは能力の話だけというわけではなく、「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」という発想の人がいらなくなる、ということなのだと思います。
職種なんかより、何ができるかが重要なのだと思うのですが。