umentuのブログ

趣味や自学でプログラミングをする上で思ったことを書いていきます。pythonのブログ: http://blog.umentu.work

安いかもしれなかろう悪いかもしれなかろう

数年ぶりの更新です。2年ぶりでしょうか?調べなさいって感じですね。

以前の通り、一度書いた文章は消さずに書き続けることにします。

タイプミスは除きます。

 

最近、Lancersで自分と関わりの有りそうな案件を見るのを日課にしています。2ちゃんまとめをみるような感覚に近いです。自分にできそうな案件を開くと、気持ちのいい案件から気持ちのあまり良くない案件まで様々な案件があります。

 

一番気持ちのいいと感じる案件はもちろん、やることが明確で値段もしっかり考えられている案件です。特に日本的な考え方かと思うのだけれど(相変わらず諸外国は知らない)、案件を提示する側が強気というか有利な風潮が強いと思っています。新卒採用なんかでもそうで、どうしても学生は下に見られている現状が強いです。最近では柔らかくなったでしょうか。と脱線してはいけません。だからこそ、要件がきっちりしているのは依頼を受ける側にとってはとても嬉しいことですし、値段が相応、もしくは相応以上であるということはいいことです。

 

次に気持ちのいいと感じる案件は、すべてを案件を受ける側に預けてくれる案件です。「自分は案件についてわからないから、相談させてくれ」ときっちり言ってくれれば、

よほど悪いことを思う人でない限り尽力してくれると思います。と思いたいです。そういう大人が多い世の中であってほしいです。

 

とここまでは気持ちのいい案件です。

ここからが本題です。気持ちの悪い案件です。実際に見た、胸糞悪い案件です。

 

値段も出す気がなく、案件概要に「安かろう悪かろうでは困るので、こちらの相談にはきっちり応じ、案件の期間は常に連絡が取れるようにして、プロジェクトを完成後もしっかりバグなどの対応をしてもらいます。」と書かれていました。フリーランスになってまでもブラックにならないといけないのでしょうか。その案件は「画像がたくさんあるCMSの移行をしたいから、移行後のサーバーの設定とCMSのデータ移行、及びCMSのカスタマイズ」で報酬は8000円とかだったと思います。自分が見ている期間ではもちろん、誰も応募せずに消えていきました。ブラック企業にも色々あるとは思うけど、本当にブラックなブラック企業ってこういう人が社長なんだろうなと思いました。会社でやったら何人でやるんでしょう。フルスタックエンジニア一人でやるとして、何日かかるんでしょう。「安かろう悪かろうでは困るので」という一言が本当に胸糞悪かったです。

 

次に胸糞悪い案件は、これは割りとみる案件ですが、案件を出しておいて期限切れでキャンセル扱いになる案件です。案件に対する提案が数十溜まっているのにもかかわらず、おそらく案件をチェックせずに消えていく案件です。クラウドソーシングは案件を出しやすく受けやすいのがメリットで、デメリットとしてはその逆の案件をキャンセルしやすく、受けても逃げやすいのが特徴かとは思います。案件を出す側には生活がかかっていますが、クラウドソーシングで仕事を受託する側はそれにもまして生活がかかっていることも多いはずです。どうか、怠らないであげて下さい。

 

最後に胸糞悪い、というほどではないけど仕事としてどうなの?って思った案件は、案件を全く理解していないのにわかっていないことをわかっていなくて、しかも見当ハズレな指図や手順だけはきっちり書いていて「その手順通りにやっていただきます」という締めくくりで概要が書かれている案件でした。気持ちのいい案件で書いたとおり、「わからないことはわからない」とはっきり書いてくれればいいのに、と思います。勘違いしていることに気づけていないというのはあるんだろうけれど、仕事を人に預ける上で何がわかっているかを理解しないで人に預けることってこわくないですかね。自分だけでしょうかね。

 

報酬を高くすればいいということではありません。(受ける側としては高いほうが良いですが。)ただ、仕事を依頼する側と受ける側が対等になってくれることを本当に期待しています。もちろん、真の対等なんていうものはないことは承知しているつもりです。それでも、仕事を預ける相手が人間であることをどうか忘れないで上げて下さい。

 

デザイナー」や「エンジニア」の境界線、というのは能力の話だけというわけではない

沖縄に来ています。もう数時間で東京に帰ります。

 

このようなブログを目にしました。

 

blog.btrax.com

 

この意見には賛成ですし、もう少し言えば最近言われた話ではなく、もう何年も前から言われていることです。あえて悪いところをあげるとすれば、海外の会社の例を引き合いに出しているのはあまりよくないと思います。一部を観て推測するのならともかく、何かしらの伝えたい事がある上で「一部を見て全てを語る」ような文章は、あまりいいとは思えません。そして、そのような文章は、私自身が書く場合もあります。

 

別に今回はこのブログの批評をしたいということではなく、単に奥さんが友達へのプレゼントを決めきれずにあちこちの店舗を探しまわっているため、海ちゅららのカフェに入ってfacebookをみていたらたまたま上の記事が流れてきたので、思ったことを書いてみた次第です。

 

本題に移ります。

2013年末に亡くなった大滝詠一氏が、ジャンルというものについて1990年ごろのラジオで次のようなことを語っていました。

 

音楽のジャンルというのは、後の人がわかりやすいようにつけたものにすぎない

曲を作った本人が「この曲は◯◯のジャンルだ」といわなくても曲はなんらかのジャンルに振り分けられますし、「この曲は◯◯のジャンルだ」といったとしても、後の人がそのジャンルに振り分けるとは限りません。

 

ジャンルというのは、単純にわかりやすくするものなのです。ジャンルが振り分けられる対象の価値を高めたり低めたりする効力はありません。

 

職業も同じなんだと思います。

班長のようなグループ内、もしくは会社、もっと大きく言えば国、さらに広げれば人間全体で「この人がこのような仕事をしている」というのをわかりやすくするための呼称が「職業」なんだと思います。

 

が、おそらくそれがどこかで逆転してしまったのだと思います。

 

「この人は、◯◯ができるから△△の職業」

から

「この人は、△△の職業だから◯◯ができる」

もしくは、もう少し悪い方向に進んで

「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」

という風に。

 

つまり、職業ありきで何ができるかを決定するようになってしまったように思えるのです。時には「この人は△△の職業だから、◯◯以外はできなくてもいい」と捉えられてしまう場合もあるかもしれません。見方を変えると「何ができるか」という部分が重要でなくなったようにも思えます。

 

少し言葉を悪くすると「公務員的」な考え方です。

 

「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」

「この人は△△の職業だから、◯◯以外はできなくてもいい」「

 

という発想は、「自分の仕事はここまで」と割り切りやすいのです。少なくとも、私はそう思います。

 

「デザイナー」や「エンジニア」が必要ない、というのは能力の話だけというわけではなく、「この人は、△△の職業だから◯◯ができればいい」という発想の人がいらなくなる、ということなのだと思います。

 

職種なんかより、何ができるかが重要なのだと思うのですが。

 

 

見やすさと理解度の間にあるもの

以前、このような記事を書きました。

 

umentu.hatenablog.com

 

今、会社のテックブログで機械学習で使う数学を紹介していて、パワポ資料ではなくノートに手書きでまとめています。TeXなどに書き起こそうとも考えたのですが、時間の制約もあることと、TeXにする価値があるのかどうか、というところを考えた時に、手描きのまま載せようと思いました。

 

パワポの時にも書きましたが、見やすいのはいいことです。見やすさは、直感的な理解に繋がると思います。時間に縛られていることの多いプレゼンや会社での業務には向いています。ですが、これは私だけかもしれませんが、直感的な理解にとどまってしまう、と感じることが多いです。

 

手書きは気持ちがこもっている」などというつもりはありませんし、手書きは無駄だと強く信じています。(現に、履歴書を手書きで書いたことがありません。)ですが、理解するというプロセスが必要な場面では、手書きの資料を読み、手書きをすることの方が利益があるように思います。単純な話、手書きのほうが時間がかかるからなのでしょう。手で書くにしろ、手書きの文章を読むにしろ、パワポの資料を読む数倍は時間がかかります。その間に、考える時間が長いだけかもしれません。

 

パワポは、手書き以上にいわゆる「行間を埋められるだけ」の操作性や機能が開発された時には、本当に手書きが無駄なプロセスとなる日もきるかもしれません。

 

できる自信とできない根拠

最近、いろいろな仕事をやらせてもらっています。

基本的に安請け合いしてしまう方なため、後になって辛く響くことが多いです。それでも前よりは、かなりわがままにさせてはもらっています。

なぜ安請け合いしてしまうのか、ということを最近になって考えてみました。

基本的には自信がありません。
あるように見られても、ありません。 
そして、なぜあるようにみられるか、ということも今回考えたことで、わかったような気がします。
(自身がないので、気がしたという表現が適しています。)


まず、あることを相談されます。

自信(実力)のある人であれば、アプローチを考えてその場で「できる」と答えるでしょう。

自信(実力)のない人であれば、できない理由を探して「できない」と言うかできない理由を列挙するでしょう。


私の場合は、頭の中では「自信のない人」ですが、口は「自信のある人」のように行動していることが多いようです。(これが自信のある人、とみられる原因のようです。)端的に言えば「いい格好しい」ということなのでしょう。きっと。

ただ、「いい格好しい」という結論で終わりたくない、という一心から、こじつけてそうではない根拠を並べてみました。


さきほども言ったとおり、自信はありません。自信があるくらいなら、こんなことを文章にしません。ないからない根拠を並べるために書いているのです。

ですが、今回考えて気づいたことは「できる自信」よりも「できない根拠」の方がないことが多いのです。ネガティブの極地なのでしょうか。もしくは「人の考えること」と高を括っているのでしょうか。(最近は後者のきらいがあります。)

と突然結論づけたところで、電車を降りました。

あなたが絶対と言ったものの価値

いままでに何度「絶対にこれはいい」「これは絶対やっておいたほうがいい」と人に言ってきたでしょうか。

そしてその中でそのこと、もしくはものがあなた自身が使っている、もしくは同等の価値を持っているでしょうか。

appleの発表一つで価値が変わる世の中に、絶対と言えるほどのことっていくつあるんでしょうか。

アドバイスをすることの否定ではありません。
ただ、アドバイスされる側の人がそのことを聞くことでどの程度影響を受けるか、というのは考慮すべきことです。聞き手のことを考える、というやつです。

あとは、同じ情報でも、「誰かに言われたか」「自分で思っているか」で価値どころか、意味も変わるものです。ワタミ社長の「できないと思うからできない」というのも、そういうことだと思います。自分で思うか、誰かに言われるかでブラック企業かそうでないかは変わります。

この新入社員が多い時期に、電車内で思ったことでした。

難しく考える努力をしてないですか?

おそらく無意識だと思うのですが、とある特定の人と会話をしていて「なんで問題を複雑にしようとしているんじゃないのか?」と思ってしまうことがあります。その特定の人も本当に特定の人ですし、傾向としては女性が多いのではないかなと思います。

 

よくある、「ただ話したいだけで、自分の中では答えが出ているんだろう」とは思います。「聞き上手になれ」という風潮は、そういったことも加味して行動に移すということだとは思いますが、私はまったく聞き上手でないのでそういったことはできません。が、問題を解決したいとは感じます。そのため、問題を分解して、極力本質的に何が足りていないのかを会話の中から探す方向に注力します。

 

ですが、そういった人との会話をしていくと、分解した問題をくっつけて、更に問題を探してきてくっつけてを繰り返し、「あれ、元々3角形くらいの図形だと思ったのに、なにこれ、2543角形?」というようになってしまいます。実際のところは、頭がよくないので、2543角形を2543角形として認識することが出来ずに、「なんの形?」と大きなはてなが浮かんでしまいます。そのため、何も言えなくなってしまいます。

 

聞き上手になれないことをハシゴを使わないくらい高い棚に上げておいていうと、私としては会議の場であってもプレゼンの場であっても会話の場であっても、簡単に話をしたいと思っています。複雑なら分解して話をしたいんです。色々なものを包括して会話することも、あまり得意ではありません。とっさに、何のことを指しているのかが明確に判断することも苦手だからです。

 

もし「どのような形かわからないけど話したい」のであれば、そのように相手に伝えた方がいいように思います。「わかっている細部の部分から話し始めてだんだんわからなくなっていく」よりも、「はじめはわからない」というところからスタートする方が問題が解決するのが早いと思います。理由としては、わからないところのとらえどころが人によって違うからです。解決するという共通認識さえできていれば、わからないところを共有しなくても他の手段で解決してしまうからもしれません。わからないところは本当に答えのないところの可能性もあるからです。

 

要は、「結論ありきで伝える。結論がなければわからないことを伝える。」ということが大事のように思うのです。

瓶水を浄水器で移すがごとく

自分語りブログをはじめて、しばらく経ちました。相変わらず、自分の思ったことを変に形にせずに、書き直さずにそのまま書く練習として書いています。

 

読んでいただいている方は、ありがたいと思います。

 

今回は、やっと諦めというか、なんとなくの自分の方向性が垣間見えた、という話です。

 

前回の記事でおそらくADHDであるんだろうなぁ、と気づいてから10年近く立つわけですが、人の話をその場でほとんど理解できていないんだと思っています。大体、極力頭のなかで噛み砕こうとしているのですが、ずれていることが多いです。これはADHDのせいなのか、ADHDだからと思っているからなのか、はわかりません。なので、人によっては私との会話で苛立ってしまう人もいるとは気づいています。ですが、どうしようもないわけです。頑張っています。

 

で、今回のタイトルの「瓶水を浄水器で移すがごとく」というテーマですが、「瓶水(びょうすい)を移す」とは御存知の通り、師匠的な人が自分の知識を弟子にそのまま伝えることを意味します。で、これに「浄水器で」がついているわけですが、結論から言うと、「浄水器」というのは主に「ブログ」のことを指しています。

 

どういうことかというと、私自身は勉強することが好きな方なのだと思います。常に勉強していたいと思います。ですが、それがなぜかというと、勉強しても勉強しても満たされることのない感じがするのです。ちょうど、「瓶に穴が空いている状態で水を入れている」感じです。入れても入れても出て行くんです。ただただ、流れていきます。

 

これまでは、どうにかして「瓶の穴」を埋めようと色々試行錯誤してきました。勉強方法を変えてみたり、筆記用具を変えてみたり、LinuxのOSを変えてみたり。いろいろしてみたわけです。ですが、結局のところ穴を塞ぐことはできませんでした。

 

ですが、最近技術ブログを書くようになってから、なんとなく「良い感じがするな」と思えてきました。何かが満たされているような感じがするのです。見られているからといったこともあるかもしれません。でも、どちらかというと「知識を噛み砕いて伝える」のに興味が湧くようになりました。でも、講義のようにその場でやるのには、ストレスが大きすぎます。おそらく、ブログなどに執筆がちょうどいいのかもしれません。

 

そこで、穴が空いているなら空けたままで、他の瓶に入れてしまえばいいじゃないか、と思ったわけです。自分と同じ知識なんて誰かしら持っているわけだから、自分なりに噛み砕いた知識を、誰かに伝えることが自分の健康状態にいいんじゃないかなと。浄水器にへばりついた「カルキ」のようなものが「自分に残った知識」なのかもしれません。きっと。

 

私は、確実に頭はよくありません。噛み砕くのにも相当な時間をかけてきました。そのため、ここに行き着くまでに時間がかかりました。でも、噛み砕くのにもそれなりにテクニックがあるはずで、そこのノウハウは年の功というか、なんというかで身についている部分はあるはずです。きっと。それがうまく働けばなと、思ったところでした。